日本占領下における海南島の鉄道

日本軍による海南島占領

 台湾を除くと中国最大の島である海南島は、フランス領インドシナ(仏印)と英領香港の中間地点に位置し、仏国の膠州湾租借地にも近い場所に位置していた。この島は、日中戦争において欧米からの国民党政権への物資補給路である「援蒋ルート」を妨害するうえで、とりわけ日本海軍から戦略上重要な地点と見做されており、海軍はこの島の掌握と航空基地の設置を求めていた。
 1939(昭和14)年2月、日本軍は海南島占領を目的とする海南島作戦を発動し、海軍特別陸戦隊を中心とした部隊が陸軍の支援のもと海南島に上陸した。重要地点の占領に成功した日本軍は、その後も全島の掌握を進めていった。

※海軍特別陸戦隊:大日本帝国海軍は地上作戦を行う部隊として陸戦隊を組織していた。海軍陸戦隊は、地上戦闘のために武装させた水兵というような性格を持ち、基本的に常設ではなかった。鎮守府(軍港に置かれた海軍の拠点)などの陸上部隊の人員から組織された場合は、特別陸戦隊とよばれる。「陸軍ではなく海兵隊が在外公館の警備や在外邦人の保護を行う」という国際的な慣例に従い、海兵隊をもたない当時の日本は海軍陸戦隊をこの任務に就かせた。そのため、義和団事件や尼港事件、第一次・第二次上海事変では海軍陸戦隊が活動している。また、西南戦争や日露戦争など様々な戦場で陸軍を支援し、太平洋戦争では戦場の拡大とともに部隊の規模も大幅に拡大された。

一等巡洋艦「妙高」の写真

重巡洋艦「妙高」の艦影。第五艦隊旗艦として海南島作戦(海軍呼称:Y号作戦)に参加した。太平洋戦争を生き抜いた本艦は、シンガポールで終戦を迎え、重巡「高雄」とともにマラッカ海峡で海没処分された。

写真:海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集』1937年版,海軍研究社,昭12, p.38. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-06-13)より

海南島へ敵前上陸をおこなう日本軍の写真

海南島へ敵前上陸をおこなう日本軍将兵の姿。

画像:佐藤市郎 著『海軍五十年史』,鱒書房,1943. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2024-06-13)より

海南島攻略戦に参加中の高松宮宣仁親王

海軍少佐(当時)として海南島攻略戦に参加中の高松宮宣仁親王(1905-1987)の姿(中央)。大正天皇と貞明皇后の第三皇子であり、兄は昭和天皇と秩父宮雍仁親王、弟は高松宮宣仁親王である。
写真:多田恵一 著『往け矣海南島へ : 附・大ボルネオと日本人』,南洋開発社出版部,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-06-13)より

鉄道建設

海南島の重要地点を掌握した日本は、輸送インフラ整備のために鉄道の建設に乗り出した。石碌鉄道(石碌鉱山~八所港間)は日本窒素が、田独鉄道(田独鉱山~楡林港間)は石原産業が建設を行い、このほかに軍用鉄道や森林鉄道が建設された。建設にあたっては現地労働者が使役され、完成した鉄道は採掘した資源の搬出などに使用された。

路線

路線距離区間
(日本窒素)石碌鉄道58.9km石碌~八所港
田独鉄道10.2km田独鉱山~安遊村
軍用鉄道178.9km北黎~楡林港
軍用鉄道(未成)15.7km黄色~鶯歌海
軍用鉄道(未成)7.5km三亜港線
軍用鉄道(未成)5.0km楡林~汐見
森林鉄道26.0km抱板~東方
河野司編著『海南島石碌鉄山開発誌』石碌鉄山開発誌刊行会(1974)を参考に作成

車両

石碌鉄道、田独鉄道、軍用鉄道は日本内地の幹線鉄道と同じ1067mm軌間で建設された。車両は省線の蒸気機関車の同形機や独自設計の車両も発注された。また、省線からの供出車両なども投入されている。これに加えて、当時すでに退役の進んでいた古典機も投入されている。このように、各所から半ばかき集めるような形で車両が調達されたが、戦局の悪化による海路の途絶によって海南島まで航送できずに別用途に転用された車両も多い。

蒸気機関車

形式両数車軸配置運用先備考
鉄道省D51形同形機11D1日窒石碌鉄道戦局の悪化による海路途絶によって海南島へ航送できなかったため、国鉄へ譲渡されて国鉄D51 1161号機となった。本機は国鉄D51形の最終機番である。形態はカマボコ型ドームを装備した戦時型設計であり、煙室と煙室扉の上部が切り欠かれている。
鉄道省D51形51D1日窒石碌鉄道D51 621、632~635号機の合計5両が供出されたとされるが、終戦後の中華民国引渡時の目録には2両のみとなっている。デフレクターを取り外して運用された模様。
鉄道省C12形/同形機101C1t軍用鉄道、日窒石碌鉄道、田独鉄道日本窒素が発注した鉄道省C12形の同形機が2両存在するが、中華民国引渡時の目録には合計10両の記載がある。同目録によれば、軍用鉄道に1両、田独鉄道に7両、日窒石碌鉄道に2両の配置が記録されている。石碌鉄道以外の7両は、他地域から転属してきた供出車と推定される。自社発注機の機番は「1」と「2」。
道省C50形51C昭和16(1941)年に5両が供出されるも、仕向地を台湾に変更され、同地で使用される。戦後は台鉄CT230形となる。
鉄道省1150形(Ⅱ)42B1t軍用鉄道中華民国引渡時の目録に、軍用鉄道への1両の配置が記録されている。
鉄道省230形11B1t軍用鉄道中華民国引渡時の目録に、軍用鉄道への1両の配置が記録されている。
鉄道省870形11B1t軍用鉄道中華民国引渡時の目録に、軍用鉄道への1両の配置が記録されている。
鉄道省2800形11Ct軍用鉄道中華民国引渡時の目録に、軍用鉄道への1両の配置が記録されている。
鉄道省9600?51D臼井茂信は鉄道ファン誌(機関車の系譜図 落穂集・1979年7月号)への寄稿のなかで。昭和16(1941)年供出分の4両 (9620、9622、9639、9659号機) は、台湾に渡ったC50形5両の動向と絡め、改軌せず海南島へ送られたと推定。しかし、中華民国引渡時の目録に記録なし。
Cタンク機1~Ct一部の車両は戦局の悪化による海路途絶により海南島へ航送できず。航送できなかった車両は八幡製鉄所を経て石原産業四日市工場へと渡った。兵庫県神戸市に1両(S108号機)が現存。1992年に海南島で廃車体1両が目撃されている。
テンダー機61C樺太庁鉄道60形の準同形機。戦局の悪化による海路途絶により海南島へ航送できず。1両が日本車輌本店の入換機(103号機)となり、5両が石原産業に引き取られ、SL391~395号機となった。5両のうち3両が南海に譲渡され、C10001形となった。その後C10001・10002号機は片上鉄道に譲渡され、C13形タンク機に改造された。

電気機関車(海南島に到着せず)

形式両数備考
東芝戦時型(E400)4~戦局の悪化による海路途絶により海南島へ航送できず。終戦後、内地の複数の鉄道に譲渡され、名鉄デキ600形東武ED4010形などになる。

内燃機関車

形式両数備考
英国製ガソリン機関車14田独鉱山にて使用。以下のような記述あり。『楡林までトロを牽くガソリン機関車(英国製)が十四台あるが機械の故障で五車だけ運転している由、今後はこれを日本製の蒸汽機関車(原文ママ)に代えて行くとの方針だそうである。』馬場秀次 著『海南島とその開発』,武蔵書房,昭和16, p.48. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-06-13))

客車

形式両数備考
2軸客車少なくとも1両日窒社章付
2軸客車(マッチ箱形)少なくとも1両錨マーク付

貨車

形式荷重備考
空気転倒式30t積鉱石車30tダンプカー。日本窒素向け。荷台下に左右1か所ずつ設けられた空気シリンダーの空気圧で荷台が左右に傾斜し、荷下ろしができるようになっている。満鉄撫順炭鉱の60t積み(35yd)ダンプカーを縮小したような外観をしている。
海南島向けダンプカーの写真
ホッパ車側壁下部が開閉するタイプ
有蓋緩急車2軸貨車。「ワフ」タイプ。水島臨海ワフ15形に類似。
トロッコ1.8t田独鉱山にて使用。以下のような記述あり。『苦力※1は殆ど黎人※2で約一千名、一・八トン積の鉱石車一車に就き一円の請負で、採屈(原文ママ)人夫三名で日に九車分働くから一日の賃銀が三円になる訳である』馬場秀次 著『海南島とその開発』,武蔵書房,昭和16, p.48. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-06-13))

田独鉱山のトロッコの写真は下記リンクにて閲覧可能
支那事変記念海軍写真帖刊行会 編『報道写真海軍作戦記録』,国際報道,昭和19, pp206-207. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-06-13)
※1:苦力(クーリー)とは、もっぱら中国人・インド人を中心とするアジア系の移民もしくは出稼ぎ労働者を指すが、ここでは現地労働者のことを指す。
※2:中国の少数民族のひとつである黎族(リー族)のことを指す。90%以上が海南島に住む。
海南島向けダンプカーの写真
空気転倒式30t積鉱石車の外観。側壁中央に「扇に日の丸」の日本窒素のロゴが描かれている。
日本機械学会 編『機械工学年鑑』昭和18年,日本機械学会,昭和16-19, p.290. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-06-13)

終戦後の動向

 1945(昭和20)年8月、日本の降伏により海南島は蒋介石率いる中華民国国民党政権に占領され、鉄道に関連する施設や設備は中華民国側に引き渡された。国共内戦の結果、毛沢東率いる中国共産党により1949(昭和24)年10月1日に中華人民共和国が建国されるが、この時点では海南島には中華民国側の勢力が残存していた。翌年の1950(昭和25)年4月、中華人民共和国側が海南島への本格的な侵攻(海南島戦役)を開始し、同年5月1日には中華人民共和国が勝利宣言を行った。

 中華民国側勢力の排除が達成されて以降も、鉄道は修復されて継続して使用された。1962(昭和36)年から翌年にかけて狭軌(1067mm)から中国本土の幹線鉄道と同じ標準軌(1435mm)への改軌工事が行われた。改軌以降、中国本土からKD5型(旧鉄道省9600形)解放1型(旧満鉄ミカイ系)蒸気機関車などが渡ってきており、KD5型は1980年代、解放型は1990年代までその姿を見ることができた。現在、三亜には鉄道博物館が開設されており、建物の一つは日本軍が海南島を侵略したときに建てた守備隊本部を再利用している。屋外には満鉄型客車(公務車GW97380号車「美齢号」)、満鉄型鉱石車(K3型3068号車)、建設型(JS6499号機)蒸気機関車、ディーゼル機関車(ND2型0203号機)、車掌車(S11型7134号車)、クレーン車(1184号機)がそれぞれ1両保存されている。建設型6499号機は海南島最後の蒸気機関車であり、2003年に正式退役した。

 2007年春に海南島を西海岸沿いに半周する高速鉄道の海南島西環状線が、2010年末に海南島を東海岸沿いに半周する高速鉄道の海南島東環状線が開業し、海南島を高速鉄道で一周する路線が完成した。本土から海を船で渡り、直接乗り入れている長距離列車も存在する。

 日本の内地では、海南島向けに製造されたものの航送されなかったCタンク1両が石原産業S108号機として使用された後、現在は兵庫県神戸市にて保存されている。また、東芝戦時型のうち東武鉄道に譲渡された車両はED4010形となり、現在は栃木県日光市にて保存されている。名鉄に譲渡された車両はデキ600形となり2015年まで現役だったが、廃車後解体処分された。

主な参考文献